2019年7月14日日曜日

採用面接に感じる近代


就職活動の面接ラッシュが一息つき、結果はさまざまですが前に向かって進んでいる話もないわけではないので、これ以上タマを撃ってもわけがわからなくなるので、応募を一旦ストップにしました。6月の頭から応募をはじめてここまでの応募は7社にもなりました。弊ブログで以前に紹介した障害者合同面接会に参加したこともありますが、ここまでたくさんの応募を一度にしたのははじめてです。

学校で面接練習をやり面接を受け続けて、気分がずんずん沈んでしまっています。面接は基本的に虚偽のない書類を提出し、それと同じことが言えるかが試されている、同じことが言えないということは書類に嘘があり、人物も信用できないと、そういう試験と認識しています。

そんな書類通りの人物に田中は責任がとれないよ、思うことはいつも変わるんだし、自分の障害特性を受容なんかするわけがない。毎日毎日生きているのだから、障害の程度だって毎日かわるに決まっています。

だけどこう書いてみると、面接選考がうまく進んでいるところは、面接も型どおりではなく、おしゃべりに近いところばかりだから、そういう自由なところに採用してもらえたら、それでいいのかもしれないですね。

人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれももちたくないのだが、にもかかわらず公共性をもつ。ぼくには、この逆説は、すべての人文学の根底にあるべき、決定的に重要な認識のように思われる。

きのう放送大学の課題を解くにあたって、ラカンの「同一化」概念をわかりやすく解説している本をインターネットに探してみつけたのが、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』という本だ。

ちょうど大学生のころ東浩紀を読んでポストモダンを考えていた田中には、あのころ東が考えていたことがいまこういうことになっているのかと、そういう意味でもおもしろく読んだ。その途中に出てくる一つの段落は結論ではないが、この本の取る立場の表明として大事なポイントの一つと考える。

これに対して、近代という時代は「まじめ」に偏りすぎた時代であった。近代という時代はいまだに社会に色濃く残るから、引用したような「ふまじめ」を含む態度表明がまだまだ目新しい。採用面接に近代を感じるのは、もう最後にしたいと、最後にするために田中の仕事探しは、もう少し続く。

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