ひとつの単語にすれば「弱者」ということになってしまうだろう、彼らのいる場所を訪ねるようになった理由の一つに、好奇心があることは否定しない。間違いかもしれないが、そう思ったのは、「弱者」への想像力を働かせる筆者は、そのようなスタンスであるからこそ、ほんとうのほんとうに「弱者」ではないという立場にいるのではないか、と田中はそう思った。たとえば田中は発達障害者であり、障害者としてどうどうと、ほかの「弱者」に共感を感じることが、近日、とても多くなった。そういう共感を示す権利を得た、というような思いがある。
けれど、もっと大きな理由が他にあったことに、わたしは、途中で気づいた。それは、その「弱者」といわれる人たちの世界が、わたしがもっとも大切にしてきた、「文学」あるいは「小説」と呼ばれる世界に、ひどく似ていることだ。
障害者でないと障害者を語れない、というのはちがうだろう。が、一方で、障害者以外の人間が障害者(など)を「弱者」として語ることは、本当に難しいことだと感じた。ただ、この本は、そのような難しいことを、極めてがんばってやっている、という印象は受けた。難しい問題で、このような印象論以上のことは、いま書けない。
田中は大学時代、文学を専攻していて、卒論は高橋源一郎だった。そのころの共感は、彼の作品がたんじゅんに面白かったからだったが、いま田中は障害者となり、そして高橋源一郎が障害者について書いているのを読むというのは、なにが喜ばしいことなのかわからないが、なんだか落ち着くべきところに物事が落ち着いていて、(正しい言い方ではないかもしれないが)うれしくなってしまった。
わたしは、この話を聞いて、ここには、なによりユーモアがある、と思った。三十年もの間、休まずに「デモ」が続いている理由がわかったような気がした。一か所だけ出てくるのがなんだか唐突な印象で、その印象ゆえに印象深い、この本のキーワードの一つが「ユーモア」だろう。「弱者」はその弱点を直視するだけでなく、一歩引いたところに別の構造をもつ強さがある、と高橋源一郎は感じているのではないか。それは障害者として生きていくうえで、田中も見習わなくてはならないと思う一方で、そこに「ユーモア」を見るのは、高橋源一郎が「弱者」を外側から見つめているからなのではないか、という疑問も残る。これが先ほどから繰り返している、この本の難しいところだ。