仕事をやめた昨年秋から、私は無職のおじさんをやりつつ、放送大学生(選科履修生)となったのでありました。次の仕事は、発達障害者として脳の特性を研究したうえで、もう最後まで変わらない仕事を見つけるので、時間をかけて選ぶことにしており、そうしたらきっと暇でしょうということで、放送大学生になったのです。
放送大学は4年間で卒業を目指す「全科履修生」のほかに、1年間(2学期)の間好きな科目をチョイスして学ぶ「選科履修生」、半年間(1学期)だけの「科目履修生」の3種類があります。私は暇つぶしのカルチャーセンターなので「選科履修生」をしていますが、それでもいちおう大学生扱いになり、たとえばマイクロソフトofficeを学割で買いましたし、アマゾンプライムも放送大学生の割引を利用しています。
さて、そんな大学生の無職のおじさんも、きょうからは期末テスト期間となりまして、きょうは一科目「問題解決の進め方」という科目のテストを受けてきました。私は東京都日野市南平に引っ越してきたのですが、放送大学の所属校舎(学習センター)は学期ごとの変更しかできず、今学期の期末試験は山梨学習センターに受けに行かないとなりません。放送大学はもちろんのこと、病院関係などなどしばらく山梨に通わなければならない私は、それもあって国道20号線(甲州街道)に便利な東京都日野市南平に住むことになったのです。
放送大学の期末試験は外部に流してはいけないものだそうなので、詳しくは書きませんが、きょうの「問題解決の進め方」は教科書持ち込み可でマークシート部は楽勝であるものの、論述問題がマジで問題解決してみやがれちきしょーいう問題でこれはもう解きながらドキドキワクワクしてニヤついてしまいましたね。こんな知的興奮は久しぶりに味わいました。なにしろ私は学校の勉強が大好きだったのです。次の仕事が決まっても放送大学生は死ぬまでしていく予定です。
「問題解決の進め方」という授業で私がポイントと感じたことは、ツイッター田中はにわ@mrhaniwaで今日の朝、復習生中継をしたのでそれも見てもらいたいですが、ここにひとつだけ繰り返してみると、問題解決のためにはコミュニケーション能力が必要ですよ、という就活論みたいな話が出てくるんですねこの教科書には。
そしてコミュニケーション能力とはなんですかいうていくつかポイントが語られるそのひとつにコンテキスト能力ちゅうのんがありますと。他には行動力とか情報の受信と発信の力とかがコミュニケーション能力なんですが、これはあくまで私の感想でしょうけれど、日本の(しゅーかつの?)コミュニケーション能力って、コンテキスト能力でしょうほとんど。ソンタクってやつ、建前を重んじる力です。
というふうに私はすぐに黒い発言をしてしまいます。私にはコンテキスト能力が圧倒的に欠けているのです。場の空気が読めない、言わなくてよい本音を常にぶっちゃけ続ける。これもまた発達障害なるものの典型的症例と、私は了解しています。訓練してなおしていくべきなのでしょうか。そもそもなおるんでしょうか(なおらないですたぶん)。いまこの文章は「黒いわァ」いうて書いていますが、黒くならないようにならないようにぃぃいうてしてきた、この前の仕事で私はいつのまにか散々誤解され、それにずっと気づけなかったのです。だから次はそんな頭のおかしな人でも働かしてくれる場所を探そうとしています。
試験を受け終えて国道20号線で家に帰ってくる間、クラウドにぶちこんである音楽をカーステレオで聴きながら帰ってきました。映画「何者」の主題歌はシューカツ的なるものへのここに書いたような考えを再びよみがえらせ、しばらく何度も繰り返し流しました。そのあとはコンピュータが自動で「似ている」と判断した曲を次々と流していきました。ああこんな曲もあったなあなどと自動DJに選曲をゆだねて運転を続けていたら、久しぶりに聴いた曲がなんだかとてつもなく美しく感じられ、涙が止まりませんでした。
椎名林檎「愛妻家の朝食」は、いまや日本を代表するsingerとなった彼女が、怪しげなコスプレをしていた若い頃そのヒットの連続のさなかに突如として妊娠結婚を発表し、産休的にメディアから姿をくらました時期のシングル「真夜中は純潔」に収録された作品です。「真夜中は純潔」は妊娠にいたる性行為を、「愛妻家の朝食」は新婚生活を、と私小説的に見えるテーマでありながらも、幾重にも読みを張り巡らせた作品には、当時から圧倒されていました。
「愛妻家の朝食」の歌詞は、幸せな新婚生活を語った後、「ところで」という疑問が提示された後に一気に暗転しています。私は椎名林檎とほぼ同世代なので、椎名林檎が当時若かったようにおじさんも当時は若かったのですが、その当時の私はこのひっくり返し方の文学性みたいなものを素晴らしい作品だと思っていました。実生活で愛に突き進む彼女が、前半で語られている愛を「わざとらしい」とひっくり返す、その文学性に惹かれていたのです。
が、これは文学なんだろうか、ときょう聴いたときにはじめて思ったのです。わざとらしくない愛なんてあるのでしょうか、と。本音でしか語ることのできない、コンテキスト力のない発達障害者には、愛のコンテキストが否定されるさまが当時、さぞかし痛快だったのです。しかし、おじさんになったいま、そのわざとらしいコンテキストが、素直に美しくてうらやましくて、涙が止まりませんでした。成長したのか、ただおじさんになったのかよくわからんのですが、というお話でした。
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