まもなくフィナーレを迎える「平成」という時代。EXILEはこの時代を代表するパフォーマンス集団のひとつであったでしょう。彼らが中心的な位置づけとする作品群「24karatsシリーズ」の中でもファンの支持が根強いという「24karats STAY GOLD」は、2010年6月のダブルマキシシングル「FANTASY」において、はじめて発表されました。その後収録されたアルバム「願いの塔」は2011年3月の発売。この発売直後に東日本大震災が起こったことは偶然とはいえ、時代を「survive」するわたしたちの記憶と渾然一体となり、なおも輝く名曲となっています。
1.トートロジー
ところで「24karatsシリーズ」と申した通り、EXILEには「24karats」と名の付く作品が多数あり、EXILEの活動歴はそれこそ「平成」の全体にわたる長いものですから、特に近年になってファンとなったキッズたちは、この作品相互の関係性、あるいは彼らがステージ衣装として用いる「24karats」というアパレルブランド名との関係、に関してあたまが混乱してしまい、これをどう整理すればよいのか、に関してヤフー知恵袋に質問があふれ、またよくまとまった回答も存在しています。それをうまいこと自分の言葉でパクると、SEOの上位となる記事が書けるのですが、わたしはそんなことには興味がないので、御名答はヤフー知恵袋に譲ります。
ここで問題としたいのは、EXILEはなぜ、キッズたちの頭が混乱するほどに、「24karats」という言葉を多用するのか、ということです。
「24カラット」、これは「ゴールド」金の純度をあらわす言葉であり、「金の純度」は「24分法」で表現するのが慣例になっています。「18金のネックレス」などという表現を聞いたことがある方もいるでしょう。「18金」は「18カラット(18karats)」ともいい、全体の「24分の18」が金、残りである「24分の6」は他の金属でできている、という意味です。ならば「24karats」は全体の「24分の24」がまごうことなき金である状態、いわゆる「純金」をあらわす言葉というわけです。
きょう主に扱っている「24karats STAY GOLD」という作品。この歌詞の中では「24karats」という言葉じたいがなんどもなんども登場するのはもちろんのこと、「100%濁り無い純金」、「純度100%」、「桁外れの混じり気ないゴールド」、「唯一無二の計り知れないゴールド」といったかたちで、なんどもなんども「24karats」という概念が繰り返し語られています。「24金がステイゴールド」。なぜでしょうか。
説明するまでもないことなのだと、彼らはきっと答えることでしょう。「24金は24金なのだから」と。仮に18金ならば、それはネックレスになればペンダントにもイヤリングにもなるのですが、24金については24金(純金)であるという以上に、その価値を説明する必要がないのです。それほどに純粋な輝き、その純粋さ自体を生きるよすがとしたい、EXILEはそのように考えるがゆえに、何度だって同じことを繰り返し、キッズを混乱させ続けているのです。
正直言って最初はバカなんじゃないかと思いました。「何度も同じことばっか言いやがって」と。キッズたちもだから混乱していると言っているでしょう? しかし、「トートロジー」すなわち「同語反復」という文学的手法を「作品の魅力」と捉えたならば、どうなるでしょう。「トートロジー」を論理学的に捉えた時、それはすなわち「AならばA」、ということです。その価値があまりにもズレなく揺るがないため、同じことを繰り返さざるを得ない、という発話者の真意が見えてきます。「24karats」の価値は、どのように説明しても説明しきれないほど高貴であるがゆえに、同じ言葉を繰り返すことでしか表現ができない、と彼らは考えているということが推測されるのです。
この文章自体が、さっきからバカみたいに同じことばかり、繰り返すようになってきました。
ところで彼らは、この歌詞がまさしく「トートロジー」であること自体にも自覚的であるはずです。それを示しているのが、「We only deal with real deal」という一文。意味をとってみれば、「オレたちはホンモノの約束しか信じないぜ」といったあたりになるでしょうが、この英文は「deal」という単語を、動詞→名詞と品詞変更しながら同語反復(トートロジー)しつつ、「real(ホンモノ)」という単語と韻を踏んでいる詩文になっています。
このように彼らは「トートロジー」が、音楽の歌詞における「韻」と関わる「言葉遊び」のテクニックでもあることを自覚した上で、それでもなおトートロジーを「real(ホンモノ)」の表現として研ぎ澄まそうという、彼らの声明をここに聞くことができるのです。
「24karats」の純粋性=「ホンモノ」を掴まえる人生を大事にすること、に対する「イミテーションへの警戒」もこの作品の中では語られています。ゴールドを仮に「キラキラ」と表現するとしたとき、そうした「ホンモノ」とよく似た「ギラギラ」な「ニセモノ」が現代には溢れている、というのが彼らの時代認識です。この曲がはじめて収録された作品集のタイトル「FANTASY」がもつ多義的な意味のひとつにも、この「現代におけるニセモノ」の響きがあるでしょう。
「ギラギラ」という言葉のニュアンスは、アブラギッシュで欲にまみれた俗物的なイメージ。これに対する「ホンモノ」「を掴み取れ」という彼らEXILEが発するメッセージは、そのスタイリッシュなダンスパフォーマンスからは想像がつかないほど、実は生真面目で保守的なものなのです。ともすれば辛気臭いメッセージが、スタイリッシュに表現されていることこそが、EXILEの魅力なのかもしれないと、キッズが熱狂する理由をはじめて見た気がしました。
2.パラフレイズ
EXILEが「歴史」を重んじてきたこと、それは「TRIBE(部族)」あるいは「GENERATION(世代)」「三代目」といった言葉のチョイスに端的にあらわれています。きょう扱っている作品でも「世代超えて受け継いでくスタイル」「ウケツガレテ行く意志」といった部分に、歴史性のある視点があらわれています。
ここで重要なのは、彼らの言う「歴史」とは単なる時間の流れではなく、そこに生きる人間から人間へと「継承」される概念であることです。歌詞の中で、彼ら自身のアーティストとしての「歴史」に想いをいたらしめる「FROM JSB TO EX」という言葉は後半で、「from EX to the
audience さらにいこうオーディエンスからオーディエンス」と、いま曲を聴くわたしたちに歴史のバトンが手渡される、そんな構造を持っています。
この歴史的な人間関係を、この作品のなかで一語で示しているのが「Fellas」(フェラ)です。ついついエロい意味を思い浮かべてしまうこの単語は、まさしく「そんなエロい言葉をふざけて使うくらいオレたち仲いいんだぜッ」と意味を暗に含んで、基本的には男どうしで使う、英語の「仲間(fellow)」のスラング表現です。金属を採掘する人という意味の「digger」(掘る人)がおそらく暗示しているベッドシーン、も含めてこの曲がもっている「さらっとしたエロみ」は、この曲がアメリカのヒップホップ的美意識表現の流れを汲んでいることの証ともいえます。
さてそんな「Fellas」に対置されているのが「haters」(ヘイター)、「憎む」という意味の「hate」(ヘイト)に「er」がついて、「憎む人、悪口を言う人、批判してくる人」くらいの意味です。「bunch」は「束」、「bunch of haters」つまり「悪口言ってくるやつら」は「相手シナイ」で、「Fellas」に対して「get ur hands up」(拳を突き上げろ!)と繰り返すこの曲は、彼らがさまざまな形で強調してきた「歴史」性が実は、ファンへのメッセージ伝達の手段であった、ということを表現したもの、となっています。すなわち、EXILEにとっての「歴史」とは「仲間」に他ならない。
「仲間史観」と一言にまとめられる、EXILEとそのファンのキッズたちの思想を、よく知られた言葉で指示するならば、それは根本敬→ナンシー関→マツコ・デラックスがいうところの、(「ファンシー」の対立項としての)「ヤンキー」というものになるでしょう。日本のポップカルチャーの発展、またそこにおけるアメリカ文化の受容形態の一としての「ヤンキー」、それの最前線にEXILEがある、ということはこれまで、あまりに当たり前すぎて確認すらされてこなかったことなのではないでしょうか。
本稿で扱っている「24karats STAY GOLD」という作品では、ここまでで見てきたように、歌詞自体にEXILEのアーティスト史が直接的にうたわれ、その歴史が最終的にファンに接続される構造を持っていました。そして、この作品世界を貫く論理が「トートロジー」であることも説明してきました。しかし、「24karats」の「トートロジー」が一瞬ゆらぐ、その瞬間に注目しておくことは、(とくに若いキッズたちが)EXILEをさらに理解することになるでしょうので、最後にこの点に触れたいと思います。
「24karats」がこの作品のなかで「24/7」という言葉に言い換えられる。これはここまでの歌詞解説における「トートロジー」という形の「言い換え」とはタイプのちがう「言い換え」、ここにあるのは「パラフレイズ」(意味自体のズラシ)です。金の純度をあらわす「24」が1day=「24」hoursと同じ数字であることは、偶然以外のなにものでもないでしょう。ズレることを拒否し続けるための「トートロジー」に立脚する本作が、安易に「パラフレイズ」に頼ったのだとすれば、それは明確な批判の対象となりえます。
つまり、この作品を名作とする立場からは、この「24/7」という「パラフレイズ」自体に積極的な解釈を発見する必要が生じているわけです。
「24/7」(トゥエンティーフォーセブン)という言葉は、このスラッシュ込み表記の形で、やはり英語のスラングとして、近年多様されている表現です。この二つの数字は「24時間」「7日間」をそれぞれ意味しており、「24/7」とは店が「年中無休」であること、またもっと一般的には「いつも、ずっと」といった意味になります。
この「ずっと、いつも」という日本語を、歌詞の「24/7」の部分に当てはめれば、確かに意味が通り、この通した意味は、ここまでで考えてきた、作品のメインテーマの、やはり「トートロジー」となっているとも言えます。が、とはいえ、そんな簡単に「24karats」という哲学を「24/7」という別の物事へズラしてよかったのか。ズラすだけの意味がなくてはならないのではないか。
という場合に、ひとつ考えられるのは、この表現を日本のポップソングに文脈に紹介したDREAMS
COME TRUEとEXILEの関係性がここに刻印されているという読み方です。EXILEのリーダーHIROがダンスチーム「Japanese Soul Brothers」を結成したのは1991年のこと、これが「J Soul Brothers」から「EXILE」へと、まさしく歌詞の通り「FROM JSB TO EX」で現在にいたるわけですが、「Japanese Soul
Brothers」としての彼らが1990年代の半ば、DREAMS
COME TRUEのライブにダンスパフォーマーとして参加していたことは、彼らの歴史を語る上で外すことのできない事実です。
だいぶ時間が現代に近くなった
2014年になって、NHKの音楽番組において
HIROは
DREAMS COME TRUEのリーダー中村正人と対談をしました。その際、
HIROは「全員でひとつのことを創っていこうという考え方を学んだのはドリカムからだった」と、きょう扱っている曲でも主題的に語られている、
EXILE特有の「歴史観」、つまりは「仲間=歴史」の「ヤンキー」視点の源泉が、実は
DREAMS
COME TRUEにあったことを語っているのです(
http://www.billboard-japan.com/d_news/detail/21927/)。
日本の歌謡曲からJ-POPの歴史のなかで、アメリカ文化をどのように消化して独自のものとしてきたか、その歴史の現在形のひとつがEXILEであるとするとき、その直系の先祖がDREAMS COME TRUEです。そのDREAMS COME TRUEが2000年11月に発表したシングル、それが「24/7 ―TWENTY FOUR SEVEN―」でした。
「J-POPのドリカム」の熱狂的なシーンが落ち着いた後の、いま聴いても先鋭的な楽曲ですが、日本の大衆はドリカムがこの曲を発表するまで、その大半が「24/7」という英語のスラングを知りませんでした。この曲のプロモーションにおいて、ボーカル吉田美和がテレビ各局の音楽番組で司会者に対して、「24/7」というスラングの意味を盛んに説明していたのが思い出されます。
そのような「ドリカム語」、DREAMS COME TRUEの刻印として「24/7」という言葉が登場したのだと読めば、その時にはじめて「トートロジー」ではない「パラフレイズ」が批評性を獲得します。自身の哲学「24karats」には、そうした哲学を学んだ祖先の血として「24/7」というスラングが通奏低音として響いている、というわけなのでした。きょうはこれで終わります。